舞台袖のマクガフィン


web夏企画様に参加させていただきました。

 なにしてんの。
 わざと大袈裟に窓を開けてから声をかけた。振り返った男は呆気にとられた様子で一拍、間を空けてこんなことをのたまった。

「……花火」

 吐き出した空白が灰となってベランダの手すりに落ちた。


 私は引き戸に巻き込まれたカーテンをかいくぐりパーラメントの箱を顔の横で振った。
 早見は特に堪えた風でもなく、またいつものように背を丸めて欄干に両腕を乗せると、私の煙草を我が物顔で灰皿に並べた。「ごめん。起こした?」
 縦に横にと見事に同じ長さの吸い殻が並んでいる。早見の癖なのだが、子供が一直線に前倣えしているように見えて私はどうにも落ち着かない。
 首の後ろが冷えるというか、薄皮一枚で胴と頭が繋がっている気がしてくる。

「友達と長電話してて、まだ寝てなかったの。近所迷惑だからもう少し音、小さくして」
「ああ、こっち」

 ベランダの手すりに置かれているのは早見の腕と、灰皿と、脂(やに)で黄ばんだラジオだ。

「汚い花火のほうじゃないから」
「可哀想なパーラメント。君のご主人様、辛辣だよね」
「私の煙草を勝手に擬人化しないでくれる?」

 珍しく口数が多いと思えばおまけに一言も二言も多いときた。
 早見がラジオを床に下ろすついでに灰皿を脇に寄せたので、所在ない気分に追いやられた私は仕方なく隣に立つことにした。それでも手持無沙汰なことには変わらず髪をほどいた。
 パーマの取れかかった髪が夏の空気を孕んでゆっくりと背中を滑り落ちた。私は少しだけすっきりした。

 首にはちゃんと骨が通っているし、血だって流れている。筋は太く、肉も厚い。
 晒されたくらいで切れやしない。

 パーラメントは茶髪ワンレンゆるふわボブがいいなと足元で丸まった早見がぼやいている。機嫌がいいのかもしれない。軽口に精度がない。

「早見を養ってくれる物好きなコの一人がそんな感じじゃなかった? 医療関係の」
「あの子は最近黒髪ロングになったよ」
「良かったじゃん。早見ロング好きでしょ」
「……まあ、そうだけど」
「なに? 好み変わったの?」

 早見は一度、意味もなくこちらを見上げたが、瞼の厚い目は別段変わった色を見せるでもなく、すぐに手元の機械に吸い込まれていった。ラジオは古いのか何回も早見の手の中で弾けていた。

「いや、寝なくていいんですかねって。明日っていうか今日早いだろ。仕事変わったばっかで大丈夫なのかと、まあ、心配を」
「――寝たくないの。それで、そういうときに限って早見が起きてる」
「一気におれが悪くなるのかよ」
「そう」
「さては適当言ってるだろ、お前」

 じい。じい。
 大きく小さく凸凹とした具合でラジオの音量(ボリューム)が下がっていく。どんどんか細くなる歌声のサビの部分が気になって――私はストップとつい声を上げた。

「――それくらいでいいよ。あとは中に入れればうるさくないでしょうし」
「はいはい。じゃあこんくらいで。鍵の下にタバコ代置いてくるから。ああ、飲み物取ってくるけど、麦茶でいい?」
「ジュースじゃなければなんでも。ていうか。夜中でもテレビ見ないのね」
「苦手なんだよ。話してなかったっけ」
「いや……知ってる。いってらっしゃい」

 そういう早見本人に話すつもりがないことは節々で察していたから、余計な口は出すまいと日頃から胸に留めていたものだが――
 かつかつ。
 長い爪が無意識にパーラメントの箱を叩いていた。

「……あ。花火」

 じりじりと捲れた火種がぱっと浮かび、思わず煙混じりに吐き出した。
 夜の団地といえば空の色は薄く、夏にもなると手垢を無理矢理指で引き伸ばしたようにくすむものだ。そうなれば光量も少なくなるし――否、少ないということはないだろうが――そう、“ともる”ものがないとでも言えばいいのか。
 なるほど、花火かもしれぬ。
 なんだ、機嫌がいいのは自分のほうかと思った。
 そして、機嫌がいいということは“良い気”になっている証拠だとも思った。あちこち広がって方向性の見えなくなった煙はただの靄だ。浮ついていて、責任もない。

 ――覚えてる? 中学のころ、亡くなった男の子のこと。

 ラジオに手を伸ばしかけた私の耳元で呼び鈴が鳴った。

「――もうぬるくなりそうなんだけど、これどうなんでしょうね。はい。そろそろピッチャー買い換えるか」
「ん……漏れたりしてないんだったらいいと思うけど。ありがと」

 早見が麦茶を両手に戻ってきたところだった。
 氷が擦り合う音が玄関の呼び鈴に聞こえたのだ。第一我が家の玄関には雑音だらけのブザーしか備わっていないし、それも先日めでたく壊れてから玄関先唯一の装飾品となっている。表札には早見の名前も私の名前もないから、だいたいのものはぶら下がっているだけだ。
 コップを受け取り、なんとなく水滴で指を拭った。雫が逃げて底の方に落ちた。
 ラジオをまたぐ形で引き戸の框(かまち)に腰を下ろした早見は、吸ってたのと言った。さっきとは真逆の構図だ。私はそうだねと端的に返して麦茶に口をつけた。確かににぬるい。

「今日、友達の結婚式だったんだけど」
「ああ、昨日。そういえばそんなこと言ってたっけ」
「そこは今日でいいでしょ」

 麦茶を飲むことだけに集中しようとすると途端にコップが硬く感じた。
 結婚式ね、と早見が呟いた。

「写真ある?」
「あるけど。先に断わっておくとユカコは美人でも人妻属性がついたサイコパス教師だから、近づかないほうが身の為」
「そっちじゃねえって。真山の写真のほう。お前のことだからほんのちょっと指先が映ったくらいでも消してるだろうけどさ」
「――早見が下の名前教えてくれたら見せてもいいよ」
「……考えとく」

 早見は静止し、笑った。笑うことに慣れていない人種の表情だった。
 私はどうでもいい顔をして続けた。

「まあ、それで、余興で歌ったの。マクガフィンって曲、分かる? 私たちの世代だったらドラマの主題歌で覚えていることが多いんだけど。さっき早見がラジオで流してたから、驚いたのよ」
「すげえメンヘラ曲。――え、歌うって、真山歌うの?」
「ねえ早見。いろいろ言いたいことがあるんだけど言わなくてもいいかしらね。――私だって歌うし。これでも昔は歌うの好きだったんだから」
「……へえ」

 酒を煽るみたいに麦茶を一気に飲み干した早見は、ついでに魚の小骨でも呑み込んだように重々しく頷いた。へえ、好きな曲だったの?
 アルコールの一滴も飲めない癖にと心中で悪態をつきながら私はベランダの柵に背中を預けた。風が抜け柵にシャツが貼り付く。

「別に。半分中学の同窓会みたいなものだったから、無難な選曲にしただけ。ラブソングはあんまり聞かなかったから。消去法でそうなったって感じ」
「カラオケの選曲と変わらないわけね」
「そんなものね」

 忘れないでねとかあなたの心臓なんてちっとも欲しくないとか、印象的なフレーズを反芻するように口の中で歌った。

「ふうん。上手いじゃん」
「そう。私上手いじゃんって思ったの」

 色を抜いた髪を巻いて痛めて、盛り付けた爪を噛んで生きていたときに口ずさんでいた――そんな歌を、私を教室の隅に追いやった同級生たちの前で歌った。
 生徒会長のドレスは昔の私より丈が短くて、私の身体を買ったサッカー部の城嶋は女とのLINE交換に必死だった。主役の優花子はいいじゃんと笑ってくれた。昔からまっすぐな子だった。白いウェディングドレス姿で笑うとこんなにも綺麗なんだなと私は感動した。優花子のために髪はきちんと染めておくべきだったなと少し後悔もした。

「あの頃はさ、私が歌えるステージなんてないんだろうなってぼんやり思ってて。なんでもいいから届いてよってとにかく叫んでたんだけど、『真山さんって実は真面目なんだね』とか『意外とそういう歌好きなんだ』とか言われてさ。褒めてくれたコもいたんだろうけど、ああもし私が優等生のコと同じ格好で同じことしてもそんなこと言われないんだろうなあって、そんな感じだったよね。ネイルデコるのは嫌いじゃなかったけど、私だって黒髪のほうがかわいいって思ってたし」

 うん、黒髪のほうがかわいいよ――毛先を梳くと髪の束がいくらか指の根本で突っかかった。

「上手く歌えるようになっちゃったから。どうすればいいのか、分からなくなっちゃったよね。だって、今までみんな私に『歌うな』って言ってたんでしょ」

 セーターの袖を捲ることがなにより恐ろしかった時期は、線の上に線を引くような――さながら誇大妄想じみた思考で、マクガフィンの歌詞の意味を必要以上に掘り返していたように思う。傷を取り込んでいたのだ。セーターの袖の中に。
 じっと窓枠で頬杖をついていた早見だったが、しばらくするとぬっと口に切れ目が入り、驚くほど自然な動作で口を開いた。

「そういや、今年で夏は終わるんだよな」

 あまりにも意表を突かれた私はくわえた煙草を噴き出しそうになった。

「それ、平成の話じゃないの?」
「同じようなもんだろ。終わるんだし」

 早見はたまによくわからない理屈で人を丸めこむ。

「――おれは違うな、真山。おれは、自分のための舞台があるなんてこれっぽっちも思ってなかったよ。もしそんなもんがあるなら、なんで観客席から野次も罵倒も飛んでこなかったんだよって。そんなの――やってられねえだろ」

 平成の話、と区切って、それから、一本、と早見が示したのは私のパーラメントだった。

「――歌、歌な。おれは他人の喉を潰すことばっか考えてるような人間だったからなあ」

 煙。中指で器用に火種を飛ばして早見はなにかを探るように上を向いた。花火にしては、薄い。

「昔からそういう人間だったし、やめないし、今でもそうだよ。真山が言う『ステージ』が欲しくなったら、駅にでも突っ込んで目についた人間の喉元を本当に片っ端から裂いてた。と、思う」
「本当って……本気ってこと?」
「歌うなって言われたら何割かの人間はそうするしかないんだよ」

 今日は機嫌がいいんだと早見が言った。背景代わりのラジオからは細々とニュースが漏れている。

 ――中学二年生の時分、夏休み明けのことだった。同級生が死んだ。一家心中だと担任の教師は語った。淡々とした語り口だった。涙ぐむ生徒たちを望んで宣教師のように彼女は言い放った。

『あなたたちは本当に悲しいと思って泣いたのか、それをきちんと考えてくださいね』

 ――乱暴で粗雑で、校内暴力の絶えない男子だった。私は捻くれていたから、ちっとも悲しくないと態度で示していた。家庭の事情を聞いて「なんだウチよりひどいじゃん」と興味を抱いたのすら一度きりだった。

 三次会でくだんの彼の話題が出たと優花子から電話があった。名前も忘れていたくらいだったし、中学時代にくしゃくしゃと丸め込まれた思い出の一つにそこまで感情を切り分けるつもりもなかったから、本音を言うと億劫な話題ではあったのだけれど。
 ただ――今になって、彼のステージはどこだったのだろうかと思ったのだ。

「話の続き、ないんだろ。分からなくなったときはそれで終わりだ。終わりでいいんだよ。他人は馬鹿なフリしてると不真面目なやつだって言うのに、辛くないフリしてても強いやつだって言ってくる。どこにでもいけるって思えばいいんだ。“お前は役者だ”って後ろ指さすやつがいるなら、自分が本物になればいいだけなんだよ。おれはおれだって」
「私は自分が本当に自分なのか、分かんなくなることのほうが多いわ」
「……そ。」

 早見は――できるだけ笑顔を作ろうとしているようだった。
 まったく不器用な男なのだろう。本来酒も煙草も女――は分からないが――似合わない手合いの男なのだ。強いていえばせいぜい顔が派手な程度だ。人のことは言えないが。

「早見さ、コミュ障が口上手いフリしてると変な女にモテるから気をつけたほうがいいよ」
「また死なれちゃったからなあ」
「――もしかして、黒髪ロングの彼女?」
「そ。不倫相手の上司が黒髪ぱっつん好きだから伸ばすんだーってスタンプくれたのが最後」
「このメンヘラホイホイ。」

 私は赤く色付いたままの吸い殻を灰皿に乗せた。
 ベランダから望む夜は歪んだ屋根の高低差で狭く低く圧縮されている。
 花火が見たいなと思った。
 もっと大きくて、分かりやすくて、人の声なんか聞こえなくなって、そういうものが見たいなと思った。

「真山。本当はステージは一つだけあるんだけど、おれは茶髪派なんだよなあ」

 なんだそれ。これにはさすがの私も口が先に動いてしまった。

「そのまんま。だから写真欲しいです。くれください」
「じゃあ条件。花火大会行って一緒にホテル泊まって」
「なんだそれ」

 そこは頑張りなさいよこのメンヘラ誘蛾灯。
 最後の夏だというのだから好き勝手に歌って踊って自惚れたっていいのだろう。だって美容院予約しなきゃいけないし。

「ねえ早見。カラオケも行こうよ」

 ラジオが軽快な音楽に変わる。曖昧に白んだ空に重なる、誰かの歌がちょっとだけ心地よかった。


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